「やっほ~七瀬ちゃん! ハッピ~ハロウィ~ン! トリック・オア・トリート~!」
「いや……もうハロウィン4日も前に終わってますけど……」
バイト先の休憩時間に入った七瀬が更衣室を開けた瞬間、目の前に満面の笑みを浮かべ両手を広げる先輩の姿が飛び込んできた。彼女こそが九条伊吹。ちゃんぽらんでお調子者、万年金欠の大学生だ。
「大丈夫、大丈夫! まだ全然ハロウィンだから! 今年のハロウィンは平日だったしセーフ! 私がハロウィンイラストをツイッターに上げるまでがハロウィンなの! ね!」
「ね!」じゃないし、何がセーフなのか分からないし、ツイッターだって随分前にエックスに名前変わったじゃないですか――という七瀬の言葉は、どうやら伊吹の耳には届いていないようだ。彼女は自身に割り当てられているロッカーを開けると、いつものように自分のハマっているジャンル『ゼロスタ』と推しCPについてあれやこれやと語り始めた。口元は淀みなく動く一方で、体の方は実にのんびりと制服へ着替えている。
「でさー、今月の展開がほんっとマジでヤバくてさ〜、『これもうL×Rは公式じゃね?』って感じで〜。興奮しすぎて眠れないもんだから、次のイベントの原稿一気に徹夜で仕上げちゃったんだよね~! この私が割り増しもしないで締め切りに間に合うとか奇跡だわ!」
「ああ、それでそんなにうるさ……いや、元気いっぱいなんですね」
「ん? なんか言った?」
「いえ、別に……」
今の伊吹は俗にいう「脱稿ハイ」という状態だった。七瀬にも経験がある。
「とにかく、萌え語りなら後でいくらでも付き合いますから、とりあえず九条さんは早く着替えてください。またこの間みたいに店長に怒られても知らないですよっ!」
傍から見れば、二人のやりとりは一体どちらが先輩でどちらが後輩なのか分からない。刻一刻と休憩時間の終わりが迫り、あと数分もすればホールスタッフとしての業務が始まるというのに、伊吹はまだ着替えの途中だ。七瀬を相手に、彼女はほぼ一方的とも言えるオタク語りに熱中している。
「あ! ていうかさっき私『トリック・オア・トリート』って言ったじゃん! ねー、なんかお菓子ちょうだいお菓子。あるでしょ。もしなかったらいたずらしちゃうぞー」
「……はあ……。そんなのあるわけないでしょ……って、そうだ、忘れてた!」
「お? なーんだ、やっぱあるんじゃん! さっすがは七瀬ちゃんだね〜」
どこまでもマイペースな先輩に対し、呆れた様子で苦言を呈していた七瀬だったが、ふと何かを思い出したようにエプロンのポケットへと手を伸ばした。それを見た途端、伊吹の目の色がぱっと変わる。その表情はまるで子どものようにきらきらと輝いていた。
「いや、お菓子じゃないんですけど……九条さんが好きだって言ってるCPで『ゼロスタ』の短編書いたんですよ! よかったらあとで読んでみてください!」
「……へ?」
ポケットから取り出したスマートフォンを片手に、七瀬は力強く頷いた。
「ほら、この間X×Yのイラストを描いてもらったじゃないですか? そのお礼です。本当に超短いんですけど……。今PDF送るので……って、あれ? ちょ、ちょっと九条さーん!」
揺さぶれど、頬を軽くぺちぺちと叩いてみても、九条は鼻血を垂れ流しながら、虚ろな目で天井を見つめている。へんじがない。ただのしかばねのようだ。
「あ、あわわ……ど、どうしよう……? て、店長~! 九条さんがいきなり鼻血吹いて倒れましたあ~っ!」
***
「あれ? あの居酒屋の前、救急車止まってる」
「なんかあったのかな」
「さあ~。酔っ払いが倒れたとかじゃね?」
親しい友人、それも普段は別のジャンルで活動している字書きが己の推しカプを小説という形で描いてくれる――そんな萌えの過剰摂取に、彼女はきっと耐えきれなかったのだろう。
かくして、またもや救急車のお世話になってしまった伊吹を見送った後、七瀬は血の海と化した更衣室の後始末に追われた。それだけで済むならまだしも、彼女の分まで業務をこなす羽目になった。それも週末の夜という、飲食店にとって最も過酷な時間帯に。すべての仕事が終わる頃には、七瀬の顔はゾンビのようにげっそりと憔悴しきっていた。
そして結局、伊吹は更に一週間後に「ハロウィン大遅刻で~す」という投稿内容と共にイラストをアップしたとか、しなかったとか。
Happy Halloween?