朝目が覚めたら私は有名になっていた、というのは誰の言葉だったか。
バビロン。なんか違うな。
バイソン。そりゃ牛だ。
あ、思い出した。バイロン。
とにかく、バイロンじゃないけど、私は朝起きたら、その、神字書きになっていた。物理的に。
イベントで姿を見たから間違いない。いつだって素敵な作品を紡ぎだす憧れのあの人は、現実でもとてもかっこよかったから。
すっきりした印象のショートヘア。涼やかな目元に泣きボクロ。凛としてスマートな立ち姿。
鏡に映った自分の姿は、綾城さんそのものだった。
さあどうしよう。状況がよく呑み込めないまま、とりあえずPCの前に座ってみる。
視界に飛び込んでくるタイムライン。
「新作待ってます!」
「べったーに上げられていた小説最高でした!」
「いつも素敵な作品を楽しみにしています」
エトセトラ、エトセトラ。
賞賛、敬愛の言葉が画面から溢れ出す。これが綾城さんの見ている世界。
こんなに、綾城さんの作品を楽しみにしている人たちがいるんだ。
分かっているつもりだったけど、実際に目にしてみると圧倒される。
なんとしても書かなきゃ。期待に応えなきゃ。綾城さんの評価を落とすわけにはいかない。
今は私が綾城さんなんだ。綾城さんの素晴らしさに泥を塗ってはいけないんだ。
大丈夫。私ならできる。たくさんどころか、彼女の作品は全て読んだ。時間限定で上げていた小説も、
別ジャンルに寄稿した小説も、数年前の別名で活動していた時のものだって。あれも、これも、それも全部、全部、全部!
キーボードをカタカタと叩きひたすらに、書いて、書いて、書き続ける。
みんな、私の作品を綾城さんの創り出したものだと思ってる。
ブクマ、RT、いいね、リプライでの感想がどんどんつく。止まらない。もっと、もっとと求めている。
そうだ、綾城さんの、私の書いた作品は、素晴らしいものなんだ。
みんなに愛されるんだ。当然だ。あの人は、私は、まさに神なんだから。
そう思って微笑んでいると不意に通話の呼び出し音が鳴り響く。
一体誰だろう。
ディスプレイに表示される文字。
『中島さん』
中島。中島からの着信。
出たくない。こんな人と過ごす時間なんてもったいない。
綾城さんだってそう思ってるはず。だって私がそう思うんだから。中島のやつめ。この身の程知らず。
無視しなきゃ。着信を切ろう。今すぐに。絶対に。
あれ。どうしてだろう。通話を拒否しようと赤いボタンをクリックしているのに。
呼び出し音は鳴り続け、勝手に通話が繋がる。
「やっぱり、違う」
けたたましい音の中でも不思議なくらいはっきり聞こえたスピーカー越しの声は、誰でもない、私のもので。
「あなたは、綾城さんじゃない」
声を上げて飛び起きる。衝撃で傍にあったエナジードリンクの空き缶が肘にぶつかり、乾いた音を立て机から転げ落ちた。
「……ねっむ……」
中身が入ってなくてよかった、視線の先の空き缶を見てぼんやりと思う。
呼び出し音だと思っていたのはスマホのアラーム。
変な夢だった。今度参加するイベントの原稿のためにちょっと無茶してるせいかな。寝汗も酷いし。気分が悪い。
6月に入ってから、早くもそろそろ夜は少し蒸し暑いし、クーラーつけてればよかった。
未練がましく呻きながらスマホを取り、アラームをやっと消す。
時刻は午前4時27分。軽い仮眠をしようと机に突っ伏したのが2時30分。約30分の寝坊だ。
締め切りも近いし時間もなるべく無駄にしたくない今、結構なロスかもしれない。なんてザマだろう。
「……言われなくたって、わかってるよ」
こんな、みっともなくて無様で、才能とは無縁な私なんか。
綾城さんでも、なんでもないことなんて。