「……暑い」
体にまとわりつく、じっとりとした湿気と不快感。あまり良いとは言えない目覚めに、シャドウは思わず呟いた。
今日は土曜日。傍らの時計を見れば、時刻はそろそろ昼に差し掛かる頃だった。 GUNのエージェントとして働く彼にとっては貴重な休日だというのに、どうやら寝過ごしてしまったようだ。ベッドから起き上がったシャドウは、ひとまずケトルで湯を沸かし、窓を開けることにした。
そよそよと吹く風がカーテンを揺らし、淀んだ空気を外へと逃がす。トーストを焼く間に準備したコーヒーをマグカップに注いでいる時、ふとシャドウは棚の上を見た。視線の先には、茶色の粉末のたくさん入った瓶が置いてある。そう、インスタントコーヒーだ。金色のラベルには老舗の飲料メーカーのロゴがプリントされている。インスタントとはいえ、一目で高級品と分かるような品物だが——。
「……また、あれを使う機会を逃してしまった、という訳か」
シャドウは深い溜息をつくと、遅い朝食をとり始めた。
***
およそ二か月前のことだ。その日、仕事を終えて帰宅しようとするシャドウに、彼の上司が声をかけたのだ。突然会議室に呼び出されたシャドウには心当たりもなく、首を傾げるばかりだった。
「もしや……。僕が担当した任務で不始末でも」
「いいや、その逆だ。入れ、閣下がお待ちかねだ」
「閣下? まさか……」
驚いたことに、会議室でシャドウを出迎えたのはこの国の大統領、その人だった。
「やあ。久しぶりだね。君の活躍は日々、私の耳に届いているよ。今日はそこの彼に無理を言って、君に会う手筈を整えてもらってね」
「は、はあ……」
大統領はシャドウを叱責するどころか、彼の日頃の働きぶりを称賛した。そして日夜市民を守っていることに感謝を述べると、小さな箱をシャドウに手渡した。煌びやかな包装紙でラッピングされており、大きさの割にはずしりと重い。
「これは私からの感謝の気持ちだ。ぜひ、受け取ってくれたまえ」
後ろから上司に睨まれていては、断ることも出来ない。さて、帰宅したシャドウが箱を開けると、中身はかのインスタントコーヒーだった。大統領直筆のメッセージカードからは「忙しい中でもコーヒーを楽しめるように」という気遣いが見てとれた。シャドウも、この老舗メーカーはよく知っている。それどころか、お気に入りの豆は実店舗に赴いて買ったことさえあるほどだ。というわけで、いざ期待してみたものの、残念ながら彼にとってはいまいちの味だった。香りは良いのだが、酸味もコクも、どこか物足りない。しかし、仮にも大統領の手から直接貰ったものだ。「口に合わない」というだけでゴミ箱に捨ててしまうのは、さすがのシャドウにも躊躇われた。
「……まあ、毎日一杯ずつ使えばそのうち処分できるだろう」
はじめのうちは彼もそう思っていたのだが――。
***
結局そのインスタントコーヒーには、貰った直後からほとんど手をつけていない。今となっては、半ば棚の上を飾るインテリアとなっている状態だ。
「仕方がない。また明日にでも飲もう」
——ただし、気が向いたらの話だが。
彼がそんなことを考えていると、玄関の呼び鈴が鳴った。宅配便だろうか。シャドウがドアを開けると、そこにいたのは真っ赤な毛並みのハリモグラだった。
「よお!」
強い日差しの下を歩いてきたせいか、彼のマズルには一筋の汗が光っていた。おまけに、何やらパンパンに膨らんだリュックを背負って立っている。
「誰かと思えば君か、ナックルズ。その荷物は?」
「ああ、これか? これはな、俺の島で……」
「話なら中で聞こう。さっさと玄関を閉めてくれ」
「ん? 上がっていいのか? ……ま、それじゃあ、お言葉に甘えるとするか」
シャドウは表向きはつっけんどんなことを言いつつも、ナックルズを部屋に招き入れることにした。
「やれやれ。最近、毎日こんな暑さだろ? 俺の島でも、バナナが元気に育つのはいいんだが、どうにも採れすぎちまってな」
「バナナ?」
シャドウの問いかけに頷くと、ナックルズはリュックを降ろした。中には食べごろに熟した黄色い果物が、溢れるほど入っている。
「すげえ量だろ、これ。ソニックとエミーにベクターたちや、ルージュのやつにまで配っても、まだ余ってるんだ。で、よかったらお前にもお裾分けしようと思ってさ」
「そのためにわざわざここまで? マスターエメラルドの番はどうしたんだ」
「ああ。それが、今朝いつも通り祭壇に立ってたらエッグマンの野郎が来たもんだから、ちょうどいいと思ってバナナを渡してやったんだ。そうしたら『今日のところは見逃してやるわい』とか言って、引き上げていったぜ」
「……君という男は、本当に……。ドクターもドクターだが……」
しかし、ツッコみどころ満載の話を聞いていた最中、シャドウはふと気が付いた。ナックルズと自宅で二人きり、というシチュエーションに。自分の置かれた状況を意識してしまったが最後、彼の心臓はドキドキと高鳴り始めた。というのもナックルズは、シャドウが密かに想いを寄せている相手だからだ。
「これはもしかして、いわゆる『おうちデート』というものでは……」
「シャドウ? おい、なーに一人でブツブツ言ってるんだよ?」
「はっ! ……そ、それはこっちの台詞だ。君の方こそ、顔が赤くなっているぞ」
「う、うるせえな! 外が暑かったんだから仕方ねえだろ」
「暑いのならば、冷房をつけてやる」
「別にいらねえよ。窓が開いてりゃあ十分だし……」
ソファでお互いに向かい合って座っていると、シャドウの緊張が伝わったのか、ナックルズまで固くなっている。これではおうちデートというより、まるでお見合い会場だ。ぎこちない沈黙が続く中、不意にナックルズが立ち上がった。
「あー……。それにしても、お前の家って案外散らかってるんだな。ちょっとは掃除でもしたらどうだ?」
いかにもわざとらしい独り言だ。気まずい空気が耐え難ったのか、ナックルズはいそいそとテーブルの上を片付け始めた。
「まったく、皿やフォークも出しっぱなしで。おい、これってどこに置けばいいんだ?」
「待て! 人のものを勝手に……」
慌てて止めようとシャドウも立ち上がるが、ナックルズと指先が触れてしまう。
「あっ」
グローブ越しでも伝わる、確かなぬくもり。ナックルズは慌てて手を引っ込めたが、ほんの数秒の間、お互いに真っ赤になって、じっと瞳の奥を見つめ合った。
「わ、悪い。そうだよな」
ナックルズは恥ずかしそうに俯き、シャドウから視線を逸らした。そんな彼の頬にシャドウは手を伸ばそうとしたが、ぐっとこらえた。
「……分かってくれればいい。僕も食事を終えたら、すぐに後始末をするべきだった」
シャドウは食器をシンクに置くと、再びナックルズに声をかけた。
「そういえば、何か飲むか? コーヒーならばあるんだが」
「おっ、ありがとな! ちょうど喉が渇いてたとこなんだ」
いつものようにペーパーフィルターを手に取ろうとしたところで、棚の上に置いてある、あのインスタントコーヒーがシャドウの目に入った。
「……ふむ。もしかしたら、彼の好みには合うかもしれないな」
そう呟いた彼はおもむろに瓶へと手を伸ばすと、粉末と氷をグラスに入れた。お湯を注ぐと、氷がカランカランと涼し気な音を立てる。
「おっ、アイスコーヒーか! それじゃ、ありがたくいただくぜ!」
冷えたグラスに口をつけた途端、ナックルズのキラキラとした表情は、段々と曇っていく。
「その、これって……やっぱり結構な高級品だろ? なんつうか、インスタントでも香りがいいっていうか……、いや、俺には味の違いはあんまりよく分からねえけどよ。まあ……、う、うん。悪くないよな!」
顏にははっきりと「微妙」と書いてあるのに、ナックルズは懸命にフォローをしている。そんな彼の様子に、シャドウも苦笑いした。
「まったく、君は嘘が下手な男だ。まずかったのならば、正直に言えばいいものを」
「だ、だって、そりゃあ、人さまからいただいたものに文句つけたら失礼だろ!」
「同感だ。おかげで、僕もこれを持て余しているのだからな。ひょっとしたら君の口には合うかもしれない、と期待したのだが……。困ったものだ」
シャドウからいきさつを聞いたナックルズは、うんうんと頷いた。
「なるほど、そういう事だったのか。しっかし、このまま飲まないで放っておくのも、確かに勿体ないよなあ。賞味期限だってあるだろうし……。おっ、そうだ!」
「どうした?」
「いいこと思いついたんだ。どうせだったら俺の持ってきたバナナを使って、バナナオレでも作ってみようぜ。案外いけるかもしれねえし」
「なるほど。僕はコーヒーを、君は余ったバナナを消費できる。一石二鳥という訳か。…ふ、いいだろう。その話、乗った」
シャドウの返事に、ナックルズはガッツポーズをした。
「よっしゃあ! なあ、キッチン使ってもいいか?」
「ああ。僕も手伝おう。ボウルはここに入っている。それと……」
狭いキッチンに二人で並ぶと、黄色く熟したバナナを切って、潰して、混ぜて、そして——。
「うわ、うめえ!」
「ああ。悪くない」
「一手間かけたから、余計にうまいのかもな」
真っ白なテーブルクロスの上には、氷の浮かんだバナナオレ。一口飲めば、ほのかな苦みと優しい甘さが、口いっぱいに広がっていく。他愛もない話をしているだけで、時間は飛ぶように過ぎていった。ついさっきまでの沈黙が嘘のようだ。二人分のグラスが空になった頃、外には少しずつ夕闇が迫り始めていた。
「おっと、思ったより長居しちまったみてえだ! 邪魔したな」
「その……。また来るといい」
「おう! 今度はブドウでも持ってきてやるよ」
段々と小さくなるナックルズの後ろ姿を、シャドウは窓辺からずっと眺めていた。雑踏に紛れて、見えなくなるまで。やがて日は沈み、空には星が瞬き始めた。月明かりの下で、虫たちが美しい恋の歌を奏で始めている。
「……やれやれ。もうこんな時間か」
名残惜しさを感じつつも、シャドウは窓を閉めることにした。次はいつ彼に会えるのだろうかと、早くも心待ちにしながら。
あとがき
最近自分自身がバナナ食べるのにハマっていたんですが、その延長で出来た話と言ってもいいかもしれない。もともと下書きを始めたのがちょうど6月になるかならないかくらいだったので、最初はお中元ネタみたいなので考えてました。そこから「口に合わないインスタントコーヒーを貰ってしまって捨てるに捨てられないシャドウ」と「やたら島でバナナが採れて余ってしまったナックルズ」の話それぞれを思いついて、「これもう合体させたらよくね」となった感じです。あと、ナックルズが勝手にシャドウの家を片付けようとして喧嘩になる話を本当にずーっと前に考えてお蔵入りにしてたんですけど、ここでほんのちょこっとだけ再利用出来たのでよかったなと思ってます。
これは結果的に果物繋がりのシリーズものみたくなってしまったので、正直に言うと後付け設定なんですが、『めろどらまてぃっく・めろんぱん』の続きになります。それより後、両想いになって付き合い始めた話が『恋は甘いかしょっぱいか』になるはずです……。もともとは繋がりのない話だったので書いた順番はごっちゃごちゃです。シリーズものとして数が増えてきたら時系列に沿って整理し直すかもしれません。(2026.7.24掲載)