西日が照らす放課後の廊下を、一人の男子生徒が歩いていた。真っ黒な毛皮に、真紅のラインの入ったハリネズミだ。肩に掛けたカバンの中からは数学や物理の教科書が覗いており、裏表紙の隅には『シャドウ』と名前が書いてある。ふと彼が足を止めると、窓の外にはアメリカンフットボールの練習試合をしている生徒たちの姿があった。秋になったとはいえ、日中の気温はまだまだ高い。彼らはみな汗だくで、ユニフォームの背中や脇の部分には大きな染みが出来ている。
「この暑い中、よくやっていられるな。まったく、理解に苦しむ」
シャドウは再び歩き始めると、廊下の角を曲がり、階段を昇っていく。階段の踊り場に設けられた掲示スペースには、部活動の勧誘ポスターや学校新聞の他、今月の予定表も貼り出してあった。一週間後には全ての部活動がしばらく休止になり、今年度初めての期末試験に向けて準備期間が始まる。いつもなら授業が終わればすぐに帰宅して部屋にこもり、『龍が如く』や『ペルソナ5』などをプレイしている彼だが、いくら好きなタイトルとはいえ、やりこみ過ぎればさすがに飽きが来るというものだ。というわけで、彼は暇つぶしと気分転換も兼ねて、少しだけ早く試験の準備をしようとしていた。
さて、図書室のドアを開けていつものお気に入りの席に座ろうと室内を見渡したところで、彼は思い切り眉を顰めた。窓際のテーブル、右から2番目の椅子。そこに腰掛けている生徒を見て、彼は小さく舌打ちする。
真っ赤な長いドレッドヘアのハリモグラ。シャドウと同じく2年生であるナックルズだ。もっとも、彼はこのグリーンヒル高校にスポーツ推薦かなにかで入学してきた上に、昨年度末は進級に失敗し、留年しているという噂だった。
つまるところ、運動能力が他人より多少秀でている以外にはとりたてて能のない男。それがシャドウがナックルズに抱いている印象だった。もっとも、会話はおろか、その必要すら感じたことは無かったが。
しかし今、この勉学とはおおよそ無縁そうな、図体だけは大きいハリモグラが、テーブルの一角に教科書やら参考書を広げている。それも、よりによって自分のお気に入りの席に。
「……気に入らないな」
シャドウはそう呟くと、ずかずかと図書室に入っていき、カバンをテーブルの上に放り投げた。どさり、という大きな音に、ナックルズは苛立ったように顔を上げる。ナイフのように鋭い視線に怯えるどころか、シャドウは彼を鼻で笑うばかりだ。
「万年落ちこぼれの君が、こんな所で一体何をしているんだ?」
「余計なお世話だ、『優等生』。黙ってろ」
挑発的なシャドウの言葉に、ナックルズも負けじと睨み返した。それが癇に障ったのか、シャドウはわざと彼の隣に座って教科書やノートを大きく広げるが、ナックルズも譲らない。
「そこは僕の席だ。さっさと退いてもらおうか」
「はあ? お前の席だあ? そんなもん知るかよ。俺がどこに座ろうが勝手だろ」
ナックルズが正論をぶつけるも、それはシャドウをますます意固地にするだけだった。二人の間に激しく火花が散る。一触即発の空気が図書室を包む中、眼鏡をかけた図書委員がおそるおそる彼らに近づいてきた。
「あのお……」
「なんだ?」
「なんだよ!」
「ひっ……、え、えっと……その、あれを……」
彼は二人の剣幕に押されて震えながらも、壁のポスターを指差した。『私語、及び他の利用者の迷惑になる行為は慎みましょう』という一文に、シャドウとナックルズはようやく我に返る。頭に血が昇ってマナー違反を犯してしまったのだ。ふと周りを見れば、皆の視線が自分たちに集まっているばかりか、何やらひそひそと囁き合っている。
「やだ、こわ~い……」
「あの子たち、静かに出来ないのかしら?」
「ケンカなら外でやって欲しいよな~……」
彼らの言う事はもっともだった。シャドウとナックルズは、揃って頭を下げる。
「さ、騒がしくしてしまってすまない……」
「わ、悪かったよ……」
しかし、反省したのも束の間、席に座り直した二人は、またもや激しくいがみ合った。お互いを肘で小突き合い、ノートの上では、小学校低学年レベルの熱い罵り合いが繰り広げられている。
『この野郎。てめえのせいで恥かいたじゃねえか』
『バカ言え、君のせいだろ』
『アホ』
『単細胞』
丸々一ページが悪口の応酬で埋まる頃には、すでに十分以上が経っていた。
『馬鹿馬鹿しい。君につきあうのは時間の無駄だ』」
ページの隅にそう殴り書きすると、シャドウはようやく自分の教科書を開いて、無理にでも集中することにした。ナックルズも『こっちの台詞だ』と返すと、黄色やピンクのマーカーだらけになった、汚いノートに向き直る。
結局、最終下校時刻になって図書室が閉館になるまで、二人は肩を並べて勉強をしていたのだった。
***
次の日も、その次の日も、シャドウは放課後の図書室に足を運んだ。人もまばらな廊下を歩き、階段を昇り、ドアを開ける。
「よう。遅かったじゃねえか」
まただ。あの席には必ずナックルズが陣取っていて、我が物顔で勉強道具をテーブルに広げていた。勝ち誇ったようにニヤニヤとしている彼に苛立ちながらも、シャドウは競うように隣に腰掛ける。
不本意ながらも一緒に過ごすうちに、彼はナックルズの様子を密かに観察していた。書き込みだらけのノートに、付箋がたくさんついた教科書。足元に置かれた、紺色の大きなスポーツバッグ。背表紙やページが破れかけた古い辞書。生徒全員に貸し出されているはずのタブレット端末はリュックの中で留守番をしているのか、一度も見たことがない。きっと彼は機械音痴なのだろう、とシャドウは思った。
ナックルズは毎日図書室にやって来ては、真剣な眼差しで自主勉強に取り組んでいる。彼に対する「単なる落ちこぼれ」という認識を、シャドウは次第に改めつつあった。
「はあ……」
しかし、ナックルズはいかんせん要領が悪いようだ。隣にいる彼の様子を窺うと、シャドウは盛大な溜息をついた。ちょうどスペイン語の教科書を開いているが、ノートに書き写された例文はスペルミスだらけだ。もちろん、ナックルズには自分の間違いに気付く気配もない。このままでは次の試験の結果は目に見えている。我慢の限界に達したシャドウは、ついに口を開いた。もちろん、声のトーンを落として。
「……あのな、君は教科書を書き写すという単純な作業すら満足に出来ないのか?」
「ああ? なんだよ、急に……」
「いいから見ろ。ほら、こことここだ、aとiが抜けている」
「げ! うわ、マジかよ。くっそ、てめえなんかに……!」
シャドウが指差した箇所を見ると、ナックルズは慌ててノートに消しゴムをかけた。
「……で、でもその、あ、ありがとな」
彼が一言ぼそりと呟いた感謝の言葉は、シャドウの耳にしっかりと届いていた。悔しさからか、それとも照れているのか。ナックルズの頬は少しだけ赤くなっている。
「ふん」
シャドウは自分の教科書に向き直ると、勉強を再開した。
***
とうとう期末試験前、最後の金曜日。終業時間を告げるチャイムが校内に響くと、シャドウはリュックの中にタブレット端末やノートを乱暴に突っ込んでいく。
「今日こそは絶対にあいつより先に着いてやる……!」
リュックを肩に掛けると教室を飛び出し、階段を駆け上がる。彼は足の速さにはかなりの自信があった。少なくとも、同じ学年の中で自分に勝てる生徒はほんの一握りだろう、と断言できるくらいには。さて、廊下の曲がり角で他の生徒や教員にぶつかりかけ、息を切らしながらも、シャドウは僅か一分ほどで図書室に辿り着いた。しかし勢いよくドアを開けると、ナックルズがもう例の席に座っている。
「……よう」
ナックルズはシャドウが来たことに気付くと、気怠そうに片手を挙げた。そんな彼の表情に、シャドウはすぐに違和感を覚えた。いつも彼の神経を逆撫でしてくるこの男が——そう、どこか元気がないとでも言えばいいのだろうか。
シャドウは乱れた呼吸を整えると隣の椅子を引き、腰を下ろした。いつものように。ちらりとナックルズの横顔を見れば、目元にはクマが出来ていた。数学や物理の小テストの解き直しをしている間にも、時折目を擦ったり、あくびを噛み殺している。そんなに疲れているのならさっさと帰って寝たらどうだ、と言いかけたところで、ふと、あるものがシャドウの目に留まった。ナックルズの足元にある、あのスポーツバッグだ。考えてみれば、彼は部活動が休止になる前から図書室に通っていたはずだし、勉強道具は全てリュックに入っている。にも関わらず、ナックルズはこのやたらと大きい荷物をずっと持ち歩いているのだ。
「おい」
「なんだよ」
「そのゴジラみたいにでかいバッグはいったい何なんだ? 部活は休みになったはずだろう」
「……ここ、私語禁止だぜ」
「話を逸らすな」
「う、うるせえよ! お前には関係ねえだろ!」
ナックルズはシャドウを睨むと、そっぽを向き、むっつりと黙りこんでしまった。
——怪しい。
二週間のうちに、シャドウはナックルズの行動パターンをおおよそ完璧に把握していた。まず、最終下校時刻が近づくと、壁にかけられた時計を見てそわそわし始めるのだ。そしてチャイムが鳴ると同時に、荷物を持って図書室から走って出ていく。今日も同じだ。
夕闇が少しずつ忍び寄る中、一人、また一人と席を立つ。もう残っているのはシャドウだけだ。教科書やノートを片付ける傍ら、彼は窓の外を眺めた。校舎から出たナックルズが、バス停の方に向かっていく。
「……くだらない。彼がどこで何をしていようが、僕の知ったことか」
そう呟きながらも、シャドウの真紅の瞳は、小さくなるナックルズの後ろ姿を追っていた。
***
「くそ。くそ。僕は一体何をやっているんだ……!」
シャドウは自分の行動に内心頭を抱えていた。目の前にはナックルズの乗っているスクールバス。好奇心に負けた彼は今、通学用のバイクに跨って彼を尾行しているのだった。
「こんなこと馬鹿げている。貴重な時間とガソリンを浪費しているんだぞ。分かっているのか……!」
自分に言い聞かせるように呟いてはいるものの、彼の手はハンドルをしっかりと掴んだままだ。かれこれ三十分近く走り続け、あたりはすっかり暗くなっている。おまけに向かっているのは自宅とは正反対の方角だった。
「しかし……このバス、どこまで行くつもりなんだ?」
彼が半ば後悔しながらガス欠の心配をし始めた、その時だった。スクールバスの速度が緩やかになったのだ。ほどなくして車が止まり、中からはナックルズが出てきた。例のやたらと大きなスポーツバッグを抱えている。彼はバスの運転手に挨拶をすると、そのまま雑踏の中へと足を踏み入れた。
「まずい」
このままでは見失ってしまう。そうなればこれまでの時間が水の泡だ。焦ったシャドウは、とっさに目に付いた駐車場にバイクを停めると、急いで彼の後を追った。金曜日の夜ということもあるのか、やけに人通りが多い。小腹を空かせた客で賑わう屋台に、道端で取っ組み合いをしている酔っ払い。夜の街には、煙草と酒の臭いが充満している。
「ねえキミ、こんなとこで何してんの?」
「へー、結構カワイイ顔してるじゃん。アタシたちと遊ばない?」
「うるさい。邪魔だ、どいてくれ!」
けたけたという笑い声を上げて群がってくる女たちは、まるでゾンビだ。伸びてくる手を払い除け、時折物陰に隠れながらも、シャドウは注意深くナックルズの後を追う。いくつもの角を曲がり、人ごみをかき分け、寂れた路地裏を潜り抜けた先に辿り着いたのは、一軒の店だった。
毒々しい色のネオンサインが妖しく輝き、看板には『ナイトクラブ』の文字が躍っている。どこからどう見ても、高校生が出入りするような場所ではない。しかしナックルズは堂々とドアを開けると、吸い込まれるように店の中へと消えていった。
「……いったい、彼はこんな所で何をやっているんだ?」
閉ざされた扉の向こうからは、かすかにではあるが、音楽や人の話し声が聞こえてくる。しばらく店先で佇んていたシャドウだったが、今更引き返すわけにもいかない。拳をぎゅっと握りしめ、深呼吸をすると、とうとう彼はドアノブに手をかけた。
***
天井に輝くミラーボールに、赤や紫のちかちかとした照明。怪しげな店に足を踏み入れると、スーツ姿の男がシャドウを出迎えた。それも、一際人相が悪い。室内だというのにサングラスまでかけていて、いかにもチンピラといった格好だ。
「ちょっと、お客さん。アンタここ初めてだろ?」
「ああ。それが何か?」
シャドウの返事に、彼は大袈裟に肩をすくめてみせた。
「あのねえ、『何か?』じゃないよ。テーブルチャージさ、決まってるだろ? うちは先払いなんだ。こっちも商売だしね、払ってもらわないと困るんだよ」
「それは……失礼。いくらだ?」
ポーカーフェイスを装うものの、シャドウは内心冷や汗をかいていた。ろくに金も持っていない高校生だとバレたが最後、すぐに店からつまみ出されるだろう。ここは相手の要求に従った方が賢明だ。幸いにも財布の中には小銭がいくつかと、くしゃくしゃになった紙幣が一枚だけ残っていた。
「これで大丈夫か?」
「ああ。それじゃ、どうぞごゆっくり」
男の手のひらに金を押し付けると、シャドウは店の隅にあったテーブルへと向かった。カウンターはすでに満席だったからだ。狭い店内を、ホールスタッフたちが足早に行き来している。それも、バニースーツやらナース服など、各々様々な格好をして。おまけに彼らはみんな少し筋肉質で骨ばった体型をしており、女にしては声が低い。どうやらここは、男性のキャストが女装をして接客をする店のようだ。客入りを見る限り、ややニッチなコンセプトながらも、そこそこ繁盛しているようだった。
「まさかとは思うが……彼もどこかのテーブルに座っているのか?」
「お待たせしました、ご注文……は……?」
「ん?」
聞き覚えのある声にシャドウは顔を上げたが、目を疑う光景に絶句した。彼の前にいたのはナックルズだったのだ。しかも、あの長い針をポニーテールのように結んでいる上に、クラシカルなメイド服に身を包んでいる。ナックルズもまた相手がシャドウだったことに驚愕したのか、拳がわなわなと震え、顔が赤くなっている。
「な、な、な……! なんで、よりによって、お前がここにいるんだよおっ!」
「それはこっちの台詞だ! うちの学校はアルバイト禁止のはず……」
「わーっ! わーっ! バカ野郎、声がでかいっつうの!」
彼は乱暴にシャドウの肩を揺さぶると、念入りに口止めした。
「い、いいか? これ食ったらさっさと出ていけよ! それと学校で他のやつに言いふらしたりしてみろ、お前の顔が変形するまでぶん殴るからな!」
「あ、ああ……分かった。分かったから離してくれ!」
「よし!」
ナッツの入った皿とお冷とをテーブルに置くと、ナックルズはそそくさとテーブルから離れていく。
「まったく、心配した僕が馬鹿だった。……いや、待て。僕は彼を心配していたのか?」
コップに口をつけ、乾いた喉を潤しながらも、ふとシャドウは自問する。
「いや、なぜ僕が……? ありえないだろう……」
彼がぶつぶつと独り言をして考えこんでいる間にも、ナックルズは店内をあちこち走り回っている。
「お待たせしました、えーっと、こっちがジンライム……」
「え、ジンライム? 頼んでないよ。それよりフィッシュアンドチップスはまだかい? もう十分以上は待ってるんだけど」
「あっ、……わ、わりい……い、いや、申し訳ございません!」
「おいおい、しっかりしてくれよ。ま、キミのそういうちょっぴりドジっ子なとこもカワイイけどさ」
ナックルズは客に頭を下げると、すぐに店の奥にある厨房へと戻っていった。見るからに疲れていて、注文を取りに行くたびに他のキャストとぶつかりかけている。ナックルズの様子を見ながら、シャドウはぼんやりと思考を巡らせた——彼はこんないかがわしい店でアルバイトをするほど金に困っているのだろうか、と。
ナックルズは同年代の学生に比べると大柄だ。それをいいことに年齢を偽って働いているのか、あるいはこの店も彼が学生だと知っていながら、見て見ぬふりをしているのかもしれない。なにしろこの不景気な世の中では物価も高くなる一方だし、どこもかしこも人手不足だ。それとも、学生という身分を隠して働くことを許す代わりに、ここのオーナーは彼を相場より安い賃金で働かせようとしているのか——。
「しかし、いくらなんでもこんなハレンチな店で働くなんてどうかしている」
そうぼやきながらも、シャドウの目はナックルズの後ろ姿を追っている。リボンのついた純白のブリム。ゆったりとした膝下丈のスカート。清楚なエプロンドレスは、彼の屈強な二の腕や厚い胸板を完璧に覆い隠していた。薄く化粧もしているようで、ミラーボールに照らされた瞼や唇が艶やかに煌めいている。彼が動くたび、ポニーテールとドレスの裾がふわりと揺れていた。
「た、大変お待たせいたしました、フィッシュアンドチップスです!」
「お、ありがとう! ところでキミ……ナックルズちゃんだっけ? 次はいつ来るのかな? 明日? それとも明後日?」
「はあ? え、えっと、俺はまだこの店に入ったばかりだし、その……」
もじもじとして俯くナックルズに、男たちはスマートフォンのカメラを向け、しきりにシャッターを切っている。
「いやー、メイド服も悪くないけど、今度は別の衣装も着て欲しいんだよねえ。チャイナドレスとか、あっちの子みたいなバニースーツとかさあ。絶対に似合うよ! オレ達のリクエストに応えてくれたら、チップも今よりもっと弾んちゃうんだけどな~?」
「あー……き、気持ちは嬉しいけど、遠慮しときます……」
「そう? 残念だなー。でも気が変わったら、いつでも声をかけてくれよ」
ナックルズの口元はひきつり、ぎこちない愛想笑いを浮かべている。いつも強気な彼とはまるで別人だ。
シャドウは苛立っていた。ナックルズにも、彼の姿に鼻の下を伸ばしている男たちにも。そして何より、自分の胸の中に燻り始めた、不可解な感情に。
「くそ、一体僕はどうしたというんだ……!」
シャドウが頭を掻きむしり、混乱していた時だった。ナックルズが目の前で転んだのだ。派手な音を立てて、皿やマグカップが宙を舞う。
「や、やっべえ……!」
ナックルズの顔は真っ青だった。食器は奇跡的に無事だったものの、運んでいた料理は台無しだ。床やテーブルもびしゃびしゃになっている。その上、座っていた客に水までかかってしまったのだ。
「す、すみません! あの、ケガは……」
ナックルズはすぐに立ち上がり、客に向かって必死に謝罪を口にした。ところが相手は怒るどころか、ニヤニヤとした笑みを浮かべている。ナックルズはそんな男の態度に、怪訝な顔をしている。
「おいおい、どうしてくれるんだよ? 見てくれよこれ、服が汚れちまったじゃねえか」
「あの、マジで……、あ、いや、ホントにすみません……。俺、弁償しますんで……」
「弁償、ねえ。君にできるかい? まあ特別に『サービス』してくれるっていうなら、大目に見てあげるけどねえ?」
男が塗れたズボンを指差すと、なんと股間がピンポイントで濡れている。それこそ、わざとらしいほどに。
「ほら、拭いてくれよ」
「うげ」
「返事は?」
「……ハ、ハイ……」
ナックルズは嫌悪感を剥き出しにしながらも、男の前で膝をつくと、ポケットからハンカチを取り出した。これも仕事のうち、と呪文のように呟きながら。
「いやー、カワイイねえ。体もほどよくむっちりしてるし、オレの好みだよ。何かスポーツとかやってるの?」
「はあ、まあ……一応……」
「あー、ダメダメダメ、そんなんじゃ。もっとニコニコして愛想よくしないと、この先やっていけないよ?」
男はナックルズに馴れ馴れしく話しかけながらも髪や頬を触ったり、尻尾を撫で回したりとやりたい放題だ。彼の顔は屈辱と羞恥のあまり、真っ赤になっている。
「うわ、最悪……かわいそう……」
「あの子、この間入ったばかりだっけ? ついてないねー……」
「店長もあんなやつ出禁にすればいいのに、ちょっと金払いがいいからって……」
ひそひそと囁く声があちこちから聞こえてくる。しかしキャストも客も、入り口に立っているあのチンピラ男も、誰もナックルズを助けようとはしなかった。ただ一人を除いて。
「くそったれどもが」
シャドウは舌打ち混じりに立ち上がると、男を鋭く睨みつけた。男の方も彼の存在に気付くと、不機嫌そうに睨み返してくる。
「おい、てめえ。何じろじろ見てやがるんだ。文句でもあんのか?」
「ああ、もちろん。彼が転んでズボンを汚した、だと? ふん。とんだ言いがかりだな」
「言いがかりだあ?」
「とぼけても無駄だ。テーブルの下で彼の足を引っかけただろう? 僕はこの目で確かに見たぞ」
彼の言葉に、店内がざわついた。ナックルズも目を見開いている。図星をつかれた男は、明らかに狼狽えている。
「さ、さっきから黙って聞いてりゃあ、好き放題言ってくれるじゃねえか。ええ? このガキが。白馬の王子様気取りか?」
「お、おい馬鹿、シャドウ! やめろって、お前には関係ねえだろ!」
「いいから。僕の後ろに下がっていろ」
ナックルズを庇うようにシャドウが前に立つと、男が猛然と殴りかかってきた。しかしシャドウは素早くかわして、男はつんのめる。声を荒げた男が掴みかかろうとすると、シャドウは逆に男の胸ぐらを掴んでテーブルに叩きつける。男がもう一度立ち上がろうとするも、それが叶うことは無かった。
「ああ……目まいが……それにふらふらする……」
酔っ払いの中年男は、シャドウの足元に這いつくばった。顔には青あざ、頭にはたんこぶまで出来ている。
「……ぷっ」
男の無様な姿が笑いを誘ったのか、シャドウの後ろで、ナックルズが吹き出す声が聞こえてきた。
「ち、ちくしょう、今日はこれくらいで勘弁しといてやる! 次会った時にはタダじゃおかねえからな!」
男は捨てお手本のような捨て台詞を吐くと、店から飛び出していった。騒ぎを聞きつけたのか、店の奥からようやくオーナーが出てきたが、全ては後の祭りだ。上客を逃した怒りからか、こめかみには青筋が浮かんでいる。
「ちょっとアンタ、何してるんだ! うちのお得意様とトラブルを起こしやがって! 迷惑だよ、とっとと出ていってくれ!」
「ふん。言われなくてもそうするところだ」
店を後にするシャドウの背中を、ナックルズが困惑した表情で見つめていた。
***
ナイトクラブを追い出されたシャドウは、古びた街灯の下に立っていた。手にしたスマートフォンには、いくつもの着信履歴とメッセージアプリの通知が表示されている。彼は「ソニック」と表示されているディスプレイをタップすると、留守番電話の録音を再生した。
『もしもし? オレだけど、お前今どこにいんの? もう十一時過ぎてるぞ! ていうかいい加減、電話くらい出ろよ!』
ため息をつきながらも、弟に折り返しの連絡を入れようとしたタイミングで、ナックルズが店から出てきた。アルバイトを終えたのだろう。ダークグリーンのパーカーに着替えていて、化粧も落としている。
「お前……! まだこんな所にいたのか? 『さっさと帰れ』って言っただろ! だいたい親御さんとかが心配……」
「人のことを言えた口か?」
「うっ……。そ、それは……」
「まあいい。家はこのあたりなのか?」
「いや、話逸らすなよ……。まあ近いっちゃ近いけど、もう少し先だ」
「それなら送ってやる。ついて来い」
「お、おい! ちょっと待て、って……うわ、すげえ。お前こんなの持ってたのか?」
二人が駐車場につくと、夜の闇に溶け込むような、真っ黒なバイクが停まっている。洗練されたデザインにナックルズが見惚れている間に、シャドウは颯爽と愛車に跨った。
「後ろに乗って。しっかり掴まっていろ」
ナックルズがシャドウの肩越しに頷くと、バイクはブオンと唸り声を上げて発進した。繁華街から住宅街へと徐々に移り変わる景色の中、シャドウはいつもよりゆっくりと夜道を走る。ナックルズの体温が背中から伝わり、ほのかに制汗剤の匂いがした。
「で? 何なんだ、あの店は。君はそういう趣味だったのか?」
「だーっ! ちげえよ! そんな訳あるか! あそこが他のとこよりも時給が高くて、たまたま面接に受かったってだけの話だっつうの!」
「時給って……。何にそんな金が必要なんだ?」
「お前にゃ分からねえだろうけど、学費とか、色々だよ。俺の家って貧乏だし。それなのに俺、馬鹿だよな……。留年までしちまって、だから……」
「なるほど。君が留年してるという噂は本当だったわけか。しかし……、いくら金に困っているからといって、あそこはどうかと思うぞ」
「だよなあ。中には好きで働いてるやつもいるみたいだけど。……にしても、さっきのおっさんの顔見たか? 傑作だったぜ! ま、ちょっとだけかわいそうな気もしたけどな」
「かわいそうなもんか。ああいう輩は一回くらい痛い目を見た方がいいんだ」
「どの道、あのおっさん、もう店にはしばらく来ないだろうな。……あ、そろそろ俺の家だ。ほら、あそこ」
ナックルズが指差したのは、古い一軒家だ。外壁はひび割れ、塗装はところどころ剥げている。彼はバイクから降りると、はにかみながらシャドウの方を振り返った。
「なあ。その……、助けてくれたことには礼を言っとくよ。お前って案外いいやつなんだな」
「あ、ああ……。また来週……」
「おう! じゃあな!」
——また来週。
シャドウはその言葉を、頭の中で何度も繰り返した。
***
「うーん……」
目覚ましのアラームが鳴り、眩しい朝日がカーテンの隙間から差し込んでくる。シャドウは身じろぎし、枕の横に置いたスマートフォンの画面をぼんやりと見つめた。
「……あと五分だけ寝るか……」
シャドウが再びもぞもぞと毛布の中に潜り込むと、誰かが彼をそっと揺り起こした。
「うるさいぞソニック……。だいたい僕の部屋に勝手に入るな、とあれほど……」
「ばーか。何寝ぼけてるんだよ」
低い声。弟のものとは全く違う。シャドウは一瞬で目が覚めた。毛布を跳ねのけて体を起こすと、あのメイド服姿のナックルズが、馬乗りになっているではないか。
「お目覚めですか? ご主人様……、なーんてな」
ナックルズはクスクスと笑っているが、シャドウは完全に気が動転していた。
「な、何故君がここに? どうやって入ったんだ? そ、それに……その格好は……」
「とぼけてんじゃねえよ。あの時じろじろ見てたくせに。こういうのが好きなんだろ?」
ナックルズは、そっとシャドウに口づけた。柔らかな唇の感触。互いの体が、どんどん熱くなる。
「シャドウ、なあ、俺……、お前のこと……」
ナックルズにベッドに押し倒されたと思った瞬間、彼は背中の痛みで目を覚ました。
「……ま、またあの夢か……!」
どうやら、寝返りをうった際にベッドから転げ落ちたようだ。片手に握ったままのスマートフォンを見ると、さっきアラームを止めてから三十分以上が経っている。いつもならとっくに家を出ている時間だ。今日の授業はほぼ試験の返却であるとはいえ、遅刻するわけにはいかない。急いで着替えて階段を降りると、リビングは静まり返っている。冷蔵庫に貼り付けたホワイトボードには、弟の書いたメモが残っていた。
『おはよう。悪いけど今日は先に学校行くぜ。叔父さんも出掛けちゃったし、鍵かけるの忘れるなよ!』
「ソニック……! あとで覚えていろ……!」
シャドウは鞄を持つと家を飛び出し、急いでバイクを走らせた。
***
学校で答案が返却されている間も、シャドウはずっとうわの空だった。あの夢が頭の片隅に焼き付いていたからだ。こつこつと勉強を続けた甲斐もあって、全ての教科でほぼ満点をとることが出来た。しかし、そんな誰もが羨む試験結果を見ても、彼の気分はどこか晴れないままだ。放課後、シャドウは自然と図書室に足を運んでいた。試験期間はもう終わったというのに、「次の課題レポートのために借りたい本があるからだ」と、自分に言い訳をしながら。
目当ての本を手にしてお気に入りだったはずの席に座っても、どこかそわそわとして落ち着かない。外からは部活動に励む生徒たちの声がかすかに聞こえてくる。シャドウが窓に目を向けると、ナックルズがチームメイトたちと一緒に汗を流して、コートを走り回っている姿が見えた。
そういえば、シャドウは彼の連絡先も、何も知らない。電話番号も、SNSのアカウントも。それなのに一週間以上、ずっと隣同士で勉強していたのだ。
少し考えてから、彼は机の上にノートと教科書を広げた。無理矢理にでも次の課題に取り組むことにしたのだ。それでもやはり、少し……いや、かなり気が散っていた。ノートの端には、授業の内容には関係のない落書きが増えていくばかりだ。
『どうしてあんな夢ばかり見るんだ?』
『彼にとって、僕は友人ですらない』
『それでも……』
下校時刻を告げる予鈴が響く中、シャドウはノートを閉じて図書室を後にした。昇降口へと駆け足で向かいながら、時折窓の外からナックルズの姿を追う。彼もまた、校舎から出てきたシャドウを見つけると、気さくに声をかけてきた。
「よう、シャドウ! 今から帰りか?」
「ああ。次の課題の準備をしていた」
「さすがは『優等生』だな。熱心なこった」
ナックルズはシャドウをからかったが、以前のような刺々しさはすっかり消えていた。二人は肩を並べて、駐車場とバス停のある裏門へと歩いていく。
「そうだ! お前さ、今度の週末って空いてるか? 土曜日に練習試合があるんだ。よかったら見に来いよ」
ナックルズからの誘いに、シャドウの心臓は大きく跳ね上がった。顔も夕焼けと同じくらい真っ赤に染まっている。
「……ふ、ふん。おおかた応援席がガラガラなんだろう。まあ君がどうしても、と言うなら行ってやる」
「あー! てめえ、なんだその言い方! もう誘ってやらねえぞ!」
沈む夕陽に照らされた校舎と、瞬き始めた星たちが、彼らを見守っていた。
あとがき
Pixivにて『1か月後に付き合っているシャドナコ』という仮タイトルで連載していました。完結したのでこっちにも掲載。プリ小説に初めてアップしたもの見たら結局2025年の7月頃から書き始めて完成まで半年かかってることに愕然としてしまった……。 とはいえ出来はともかく、最後まで書き切ったことで「連載物を完結させた」という自信にも繋がりました。まあ正確には、書き終わらないうちに新しいネタを思いついて書き始めちゃったから、完成になんとかもっていこうと強引にエンジンかけたようなもんですが。地の文がやや少なくなってしまったかなあ、というのは軽い反省点です。今後の展開とかも考えてはいるんですが、ひとまずこのエピソードはこれで完結です。また気が向いたら細かいとこ修正したり、続きになる話を書くんじゃないかな……。多分。
最後に簡単なキャラ設定。高校の設定とかは基本的に米国とかの学校に準拠って感じです。アメリカエアプだからちょいちょい調べながらやってますが。間違ってるとこあっても「まあフィクションだしな……」で見逃してください……。あとソニックが名前だけしか今のところ出てきてなくて申し訳ない。
(2026.1.12掲載)